中将棋・人物名鑑


大山康晴 (大正12.3.13〜平成4.7.26)

 棋士。十五世名人。岡山県倉敷市出身、師匠は木見金治郎九段。

 中将棋の行く末を案じ、中将棋が知りたいという人あれば、気さくに求めに応じて手ほどきをしていた*というエピソードや、ことあるごとに盤商・佐藤敬商店へ出向いては、「私がいなくなったら中将棋のことを熟知している人間がいなくなる。何とか私の知っていることを後世に残したい」と仰っていたというエピソードは関係者の間では有名。

 氏がいつ頃中将棋に出会われたのかは定かではないが、氏は『中将棋の指し方』の中でこのように書いていらっしゃる。

「(中将棋は)京阪神地方だけでしか指されていない」(2P上段2行目)
「私は小さいときからこの中将棋をよく指した」(3P下段7行目)

 岡山県倉敷市生まれの大山氏が「京阪神地方だけでしか指されていない」と断言なさった上で「小さいときからよく指した」と仰っているということは、氏が中将棋を覚えられたのは大阪の木見氏のもとに弟子入りしていた頃であろうと推測される。
 事実、井口昭夫著『名人の譜・大山康晴』という本の中にはこの推測を裏付けるようなエピソードが紹介されている。

「(大山名人は)昭和十二年初段から二段になった。十三年は昇段できず、十四年に三段になった。十三年になぜ昇段できなかったか。
 当時、木見道場には師匠の弟栄次郎が居候していた。将棋はプロに近い三段、中将棋も人に教えるぐらい強かった。(中略)
 大山はこの年、十三年に碁と中将棋に熱中した。「栄さんと毎日、碁と中将棋で、将棋どころではなかった。あのとき、もっと将棋に身を入れていたらどうなったか」と振り返っている。(中略)
 たちまち中将棋も碁も強くなった。中将棋は研究家だった師匠を負かすようになった。全国で中将棋を指す人は少なくなったが大山は権威であった」

*余談ではあるが、その時の大山名人の教えが回り回って私の耳に入ったことが、私が『中将棋の指し方』の記述を見直し、『中将棊指南抄』とつきあわせて中将棋のルールを再検証し、ひいてはこのサイトを立ち上げるきっかけとなったことを付記しておく。


岡崎史明 (明治40.6.15〜昭和54.11.26)

 棋士。大阪市出身、師匠神田辰之助九段。

『中将棋の指し方』のルール解説部の執筆者として、中将棋関係者には広く知られている。

 ただしこの『中将棋の指し方』記載のルールは、氏がご存知だったルールをそのまま書き綴ったものではないらしく、『中将棋の指し方』4ページ2段目には次のような記述がある。

「以前に同門の灘八段からいただいた“中将棊指南抄”という本が私の手元にある。
 それを参考にして、中将棋の指し方を、(中略)お伝えしておくことも後世のため必要と信じ、ここに筆を執らせていただいた次第である」

 つまるところ氏は、元よりご存知だったルールと、元禄十六年に書かれた『中将棊指南抄』記載のルールとを混ぜ合わせたものを記されたらしい。

 氏がいつ頃誰から中将棋を教わったのかは不明。ただ『中将棋の指し方』には

「(昭和)二十二、三年頃まで、故木見金治郎先生にだいぶ(中将棋を)指していただいた」

 と書いていらっしゃるので、岡崎氏の師匠の師匠、大山氏の師匠である木見金治郎氏から教わったのかもしれぬ。


岡崎氏と大山氏

 両氏は、『中将棋の指し方』の中でも実際に中将棋を指していらっしゃるが、両氏の中将棋を巡る関係は昭和の初めにまでさかのぼる。
 前述の『名人の譜』の中で大山氏はこのように仰っている。

「昭和十五年、四段になった頃、ライバルは岡崎史明四段だった。彼は四段陣の中でも特にしっかりしていて、互いに“あいつには負けられない”と張り合っていた。また、中将棋も強く、この面でも競争相手だった」

 この一節から、岡崎氏と大山氏は幾度となく中将棋を指してきたのであろうということがうかがえる。

 また両氏それぞれの項でも書いたことだが、大山氏は師匠・木見金治郎氏とその弟栄次郎氏から中将棋を教わり、また岡崎氏も木見金治郎氏より中将棋を教わったようなのである。
 これを因縁と呼ぶべきか、それとも単に当時の将棋界において、中将棋を教えられる人間が木見氏周辺にしかいなかっただけと考えるべきかは微妙だが、いずれにしても興味深い。

謝辞
『大山康晴・名人の譜』という本をご紹介くださったonsenpenguinさんに感謝いたします。


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